音節などに関するメモ

引き続いて音節などについて。
「子音」「母音」というのは、抽象的な観念。抽象的、とは、つまりどういうこと?つまり、実例から弁別性のある要素を見分け、カテゴライズした、と言うこと。抽象的な概念を手に入れるには、何よりもまず、抽象という心理的操作が必要、と。
こういう考えは、トマセロらusage based theory の視点と、親和性が高いのではないかと思う。
現在の音韻論などでは、有名な二十分節性dualityの考え方に基づいてかどうなのかは知らないが、「子音」「母音」という抽象的観念が、生得的innateなものである、との暗黙の前提があるように感じる。
その様な生得的な機能は、言語習得にとっては特に必要でない、と言うのがusage based theory の立場で、音節概念についても、トマセロの示す、音声ストリームの「processing > categorization 」という図式で、回収できるはづ。
つまり、「子音」「母音」と云った観念は、そういう風にカテゴライズする必要が、ある特定の言語を習得する過程で生じたから、その様に抽象した、という。
'let'/let/と'letter'/let.uh/では、母音の有無によって意味に違いが生じるのだから、「母音つき」「母音なし」というカテゴライズが、どうしても必要になる。
日本語では、テレビラジオがない時代ならいざ知らず、現代の多様な言語体験の中で、「です」の東日本式/de.s/と西日本式/de.su/に違いがないことは容易に認識され、「s=su」という抽象操作が行われる。と。類似の様々な事例から、「k=ku」「ch=chi/chu」なども導かれ、総体として、「言語音には大体のどの鳴りが伴うけれども、伴わない場合も規則的に発生するが、それは些末な変異体variantに過ぎないので、両者を等価と見なして構わない」といった、「音素=言語にとって意味のある音」の一つの概念化が行われる、と。

要するに、言語習得の過程における音声のカテゴライズの段階で、「何を音素とするか」と言うところにも、かなりの幅がある、と言うこと。いかなる言語にもいわゆる「母音」が存在するのは、そうしないと聞き取りづらく、やりとりに支障が出るからで、例えばもの凄く静かな自然環境で発生した言語には、いわゆる「子音」だけで構成された言語、と云う可能性も、排除できないはずである。そして、日本語では単独の「子音」は(母音の消失の場合を除き)言語音ではない、と判定される様に、「子音言語」の話者にとっては、いわゆる「母音」は、言語音ではない、ただのノイズにカウントされる。
こうしたことは、手話の例を考えたら、まさにそうなのではないか、と思う。手話にとって「子音」「母音」の概念なんてのは全く必要であるはずもなく、重要なのは、「時空間に展開されるサインの、どこからどこまでが何を示すか」ということでしかない。音声言語に於いては、たまたまsalientなのが、「母音」でありがち、ということに過ぎない。


日本語の「子音/母音」意識については、他に、文字を習得する以前の段階で、「〜行子音」と云った抽象化が、そもそも行われているのか、ということも、自明ではない。別の言い方をすれば、例えば「さしすせそ」が、一つの関連あるグループであるという観念が、話者の脳内にあるのかどうか、と言うことである。
実際、悉曇学、つまりサンスクリットの影響を受ける以前には、日本には、五十音図なんて発想は(おそらく)なかったわけである。
しかし文法ではきれいにそうなっているではないか、と言うことにしても、文法はすべて実際からの抽象による高等技術であるとするusage based の立場からは、その様な抽象的な「〜行」という文法装置も、特に必要でないと思われる、という。