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文字←→音の対応について、記述の仕方によって意識が拡散/集約して、難易度が違って感じられる話。

6日

少し中断したけど、このところ中学英単語のアクセント音節母音の綴りと発音別のリストを作ってゐたりして、気付くことが色々ある。


一つ面白いのは、たとえば /ei/ といふ二重母音にay/ai, a_e, ei/ey, などと綴りが複対応してゐる場合、「この音素がこれこれの数通りの綴りと対応してゐる」といふ具合ひに、「音→綴り」へと意識が拡散する方向に理解するのでなく、
「これこれの数通りの綴りはこの一つの音を表す」といふ具合ひに意識が一カ所に集約する方向で理解してやると、現象としては同じ筈なのに、感覚的には随分とすっきり整理されたやうな印象があって、混乱が少なく感じられるらしい。
なんとなく理屈は掴めさうなのだが、まだ少し整理する言葉が出てこない。


でも、歴史的仮名遣ひでも、「この音素はかういふ風に複数通りに綴られる」と考へると煩はしさうでも、実例から帰納して「これらの文字は條件によって全て同じ発音になる」と逆方向に把握出来れば全く難しくないといふのも、多分同じ脳の働きによるんだらう。
表音文字は音を書き表すために使はれる」傾向が強いとはいへ、さういふ「歴史的起源」の図式を、「脳の働きの共時的な仕組み」にまで当てはめて理解せうとするのは、やっぱりどこか反省を欠いた浅はかな考へなのだと思はれて仕方ない。


8月5日

歴史的仮名遣ひユーザーのための偽装現代仮名遣ひロマ仮名入力」の実験のためにこなひだから部屋でもローマ字入力に戻してみてゐる。(普通は親指シフト) 
母音連続や「っ」「ん」の省入力、Jキー拗音などがあれば、あとキーボードの物理形状が負担が少ないものであれば、QWERTYロマ仮名も、タイピング動作自体は特に困る様なこともない、といふのを実感する…。
…のだけど、やっぱりかな入力に慣れてると、画面に一瞬関係ない文字が現れるのが鬱陶しくて仕方ない。余裕でタッチタイプ出来るのに、この画面上の動きの鬱陶しさから目を逸らすために、わざわざ視線を手元に落としてしまったりする。

現代仮名遣ひと歴史的仮名遣ひをかうして行ったり来たりしてゐると、やっぱり自分にとっての現代標準日本語って、どこまでも「自然な」言葉ぢゃ無いんだな、といふのを、改めて強く実感する。
つまりどこまで行ってもコンポジションなんだ。
(作文と日本語で言っても良ささうだけど、それだとcon-一緒に-pose置いていく、といふニュアンスが出ないので、敢へて。)


さういふ前提があるのならば、活用の際の語根の整合性が見えたり(ハ行四段)、自動詞と他動詞の使ひ分けに意識的でゐられたり(燃える、消える、癒える…)、合成語中の語構成に意識的でゐられたり(やよひ=弥+生ひ)、さういふ「語意識」みたいなものを感じてゐられる歴史的仮名遣ひの方が、
「書く=意識的に言語表現を構築する」と云ふ行為にとって、よほど相性が良いやうに感じるし、精神的な負担もよほど少なくて済む。


現代仮名遣ひなど、どうしても「コスプレ」感が拭へなくて辛い。
しかも自らに演技を強いながら、同時に「演技なんてしてないよ」といふ「振り」まで二重に要求されてゐる気がして、尚更、辛い。
これに比べたら、歴史的仮名遣ひで書き言葉は書き言葉として、語と語の関係性を意識するなんて「不自然な()」ことしながら綴る方が、よほど精神の健康に良い。


かう自分の感想を綴ってみると、確かにある種の厭世の気分ではあるかも知れない。

しかし言葉なんて、なんのためにわざわざ文字で綴るのかな?
内省的に言葉を綴るときにまで、コンフォーミストでゐなけあならないのかな?


私には、よう分かりませんです。


いち地方人の戯言です\(^o^)/

数時間前になんかごちゃごちゃつぶやいて、それから今シャワー浴びながら思ひついたのだけど、
現代仮名遣ひと歴史的仮名遣ひは、「同じ言葉を二通りに書き表す」と考へるから話がをかしくなるんだ。
これで万事解決だわ。
「あいつが使ってるあの言葉」と「わしが使っとるこの言葉」が「同じ言葉である」といふことを保証するのは、「同じ言葉だと思ってゐる」こと以外にはないので、違ふ言葉だと思ったらそれはそのまま違ふ言葉でいいのである。
歴史的仮名遣ひはコスプレ、なんて言ひがかりも良いところだ!」
別々の言葉だけど形は大体同じなので、大体意思の疎通に問題はありません。
ヒンドゥー語とウルドゥー語に比べたら随分マシ。
と言ったら怒られるか。


「同じ」を判定する脳機能、メンドクサイですね。
取り扱ひ注意です。