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読書メモ『ハングルの誕生』

 折しも自分でローマ字配列など自作し、ゼロ子音だとかゼロ母音がどうとか考えていたときで、実にちょうどいいタイミングでこの本が出ていたと知ったのであった。

ハングルの誕生 音から文字を創る (平凡社新書 523)

ハングルの誕生 音から文字を創る (平凡社新書 523)

 とりあえず前半の、ハングルの仕組みや根本的な発想のアレコレを述べた章を読了。実に面白かった。
 気になったポイントは山ほどあるが、最近の私の考えていたことの文脈で思うことは、やっぱり(少なくとも標準)日本語は、かなが一番しっくりくる、ということである。
 ハングルというシステムが如何に精緻に組み立てられたものかということは、本書の記述を読めばよく分かるのであるが、そうした評価と、言語の表記メディアとしての優劣に関する評価とは、一義的に結びつけることは出来ない。道具や媒体の優劣は、達成すべき目標からの逆算でしか、評価できないものだからである。そうした意味で、朝鮮語の表記としてハングルが如何に優れていようと、その他の言語の表記ついても、優れた装置であるとは、必ずしも言えないと思うわけである。そうしたことは、具体的な反例を見れば、よく分かる。


 様々な事例があると思うが、まず、ハングルと同じ発想に基づく単音字母によって表記される、英語やその他印欧語などの場合。一番分かりやすい点では、音節始めの子音群が、2重子音ならまだしも、英語のstr-など3重子音も頻繁にあるし、時には本書でもロシア語の/vzgl'at/という単語に触れられているように、4重子音なんてものもあったりする点で、こうしたものに、ハングルのシステムが適しているかどうかと言えば、かなり疑わしいのではないかと思う。


 さらに、より本質的な点としては、言語による「音節」意識の違いである。本書では、ラテン文字に代表されるアルファベットシステムについて、「音節の切れ目がわかりにくい」という欠点をあげているが、私の知っている限りのことでしかなくて恐縮ではあるが、そもそも英語などでは、音節的要素と非音節的要素の区別が、朝鮮語と比べて、遙かに曖昧なのである。この点は、再建された印欧祖語やサンスクリット、スラブ語派などにも事例が見られるように、通常のaiueoといった母音の他に、r や l 、なども母音に数えられる事などに、よく現れている。
 自分で具体的な事例を渉猟したわけではないから手抜きなのだが、以前千野栄一著(どの本だったか忘れてしまったが…)で読んだのが、チェコ語で「アイスクリーム」を意味する/zmrzlina/という単語。この場合、形態素の分析としては、語根zmrzlin- と格表示-a と考えるのが、ひとまず妥当のようで、その様に千野著にもあったと思う。しかし、r を母音とするような解釈もひとまず成り立つ、というか、話者の意識としては、「音節」と言ったような意識がそもそもあるのか、ということが、自明ではないとも考えられる。音節云々ではなく、ただ単に zmrzlina という単語として、認識されるということも、十分に考えられる。


 身近な英語を見ても、その様な例は幾らも見つかる。例えば、little などの語末の-le など、発音としては一つの音節とも数えられるが、前後に曖昧母音を伴うことは必須ではなく、/l/ 一つでも音節として音節的要素として認められる。実際、手持ちの Cambridge Advanced Learner's Dictionary では、その様に扱っているし、イギリス発音の literature の最初の r や、dictionary では、r のみならず n に関しても、通常の母音の付加をオプショナルなものとして扱っている。(発音記号を使わずに無理に示せば、前者は /lit.r.i.chuh./、後者は /dic.shn.r.i/)
 英語で他に面白いのは「鼻腔破裂」という現象で、例えば button で、発音としては/but.n/のようになるが、この t を、本来の歯茎の位置ではなくて、息を口腔に通さず、鼻腔の奥で破裂させてしまうのである。この場合、音声学的には、全く別の現象が起こっているが、音韻論的には変わらず/t.n/という意識である。(ちなみに、上記の-tle は、「側面破裂」といい、/t/の舌の形から、間に母音を入れずに直接/l/の舌の形に移り、舌の両側の部分的な隙間だけで、破裂音を発生させる。)
 このような音節意識が、果たしてハングルというシステムによって、適切に反映されうるか、出来たとして、その際にできあがるゲシュタルト=文字の姿が、実用的な程度に認知が容易なものになり得るかとというと、かなり疑問である。


 以上は印欧語を例にとったものだか、最近私が考えている日本語の例も、しつこいようだが挙げておく。これには、本書で引用されている例をそのまま拝借するのが便利かと思う。
 本書によれば、ハングルの優れた点として、音節構造を明示出来るというだけでなく、形態素までも文字の上に表現出来ることもあげられている。例えば、朝鮮語で「夜」を表す/pam/は、日本語の格助詞「が」に相当する/i/を伴えば、音節としては/pa.mi/という風に実現される。しかし、ゼロ子音を表す字母を使うことによって、/pam.i/という表記を与えることも可能で、このようにすれば、どのような形態素によって作られた音節グループなのか、一目瞭然だ、ということである。もっともである。
 著者はこれに倣って、ハングルを用いれば、日本語のたとえば動詞の活用語尾も、「形態素+格表示」という分析を、文字表記の上に表せる、と提案する。例えば「書く」という動詞の活用であれば、/kak.a.nai/、/kak.i.ma.su/、/kak.u/、/kak.u.to.ki/、/kak.e.ba/、/kak.o:/、/kai.ta/、といった具合だが、これは行きすぎた分析だろう。
 確かに、音声としてはその通りなのだが、重要な点は、日本語では、朝鮮語のようには、子音で終わる音節が許容されないという点である。朝鮮語/pam/は一つの語であり得るが、日本語には/kak/という語は許されない。本書で用いられている、原子と分子の譬えを用いれば、kという原子もaという原子も存在するが、kakという分子は、日本語の物理法則の中では、安定して存在できないのである。ちょうど、ある種の原子が一つだけでは分子にはなれず、COという分子が存在できないのと、同じである。存在できないものに、無理やり形を与えることは、文字の平面でなら可能だろうが、その様なやり方が、音韻意識を表現すべき文字表記という慣行として、日本語話者の間に根付くとは、考えにくい。


 日本語からみた、音節に関する今ひとつの疑問点は、先日のエントリーでも書いたように、音節から母音が消失するということが許されてしまう、ということである。
 例えば、「です」や「ます」は、東日本式の発音では、「す」は母音を伴わない。他にも、「楽天」の「く」だとか、「石原」の「し」だとか、それぞれ、/s/、/k/、/sh/、などと発音しても、混乱の生ずる余地はない。
 この場合、母音を失った「す」や「く」は、音節という観点からは、はたしてどのように叙述するのが正しいのであろうか。母音を伴わない以上、それは単独の子音、非音節的要素であるが、言語内の機能としては、両者は完全に等価である。「s=su」が成り立つのである。「母音を伴わない音節」という表現は、明らかに矛盾である。
 もちろん、それぞれの方言などの内部では、そうした母音の付属や消失は、一貫したルールとなっているのであろうが、少なくともいわゆる標準語においては、両者の間に意味の違いが生じることはない。標準日本語とは、そのような変異を許容するような言語体系なのである。
 さらに面白いのは、日本語の場合、単独子音に対して、対応する音節がほぼ決まっているということである。/s/と聴けば、必ず「す」という要素、/k/ならば「く」と自動的に解釈されるし、/sh/であれば、調音位置の違いによって、「し」か「しゅ」のどちらかに吸収される。同様に/ch/も「ち」か「ちゅ」。硬口蓋破裂は「き」、軟口蓋破裂は「く」、さらに摩擦音なら、「バッハ」「ゴッホ」「イッヒ」「ブルッフ」などとなってしまう。要するに、仮名が、母音の区別だけでなくて、子音の区別にも使われているのである。


 これらの事実が示唆するのは、日本語にはそもそも「子音」や「母音」という分類意識自体が存在しない、という可能性である。そう考えれば、「母音を伴わない音節」などという矛盾した観念を用意する必要も、そもそもないのである。
 そして、仮名という文字は、こうした音韻意識を、実にうまく反映しているのである。もちろん、仮名によって逆に日本語話者の音韻意識が規定されてしまっている可能性も、否定できないのであるが。


 何だか、ハングルの話からだいぶ離れてしまったが、最近の考えのまとめも目的であるので、よしとしよう。
 とりあえず、ハングルが、朝鮮語にとって実に適した文字体系であるのは、朝鮮語の次の様な特徴に由来するということは、上記から明らかであろう。

  • 音節と非音節的要素が、はっきりと区別できる。
  • 音節構造が、割合単純である。

ということである。