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文字入力、

て言うけれど、コンピューターに情報が打ち込まれていく、というところを見れば、確かに入力なんだけど、キーボード打ってる人間の側から見たら、どっちかっていうと、感覚的には文字「出力」という感じが、私の場合、するですね。
特に親指シフトに移ってからは、強く感じるようになった。てか、親指シフトにしてから、と言った方がいいか。

ロマかなは、思い返してみても、「こちら(人間)がラテン文字で打ったら、あちら(PC)で仮名に出力してくれる」、て感じで、やっぱり「文字入力」という言い方にも、違和感がなかった。それは、「フォームに入力したら、あとは自動的にソフトでやってくれる」というのと、似たような感覚で。

自分が動作を行うと(出力)、画面上に何か反応が起こり、その反応の結果を受けて(入力)、また何か動作を行う(出力)。このフィードバックのサイクルについて、それがどのように認知されるのか、ということ。
自分が出力をする、するとそれが相手(PC)に対する入力となる。相手はそれを受けて画面に文字を出力し、今度はそれが自分の側への入力となる。こういう、双方向的なやりとりの感覚が、ロマかな入力中には、今思い返してみる限りでも、確かにあった。


親指シフトをやっている時は、このプロセスの認知が、根本的に変わっているような気がする。自分の行動(打鍵)を受けて、画面上にPCが文字を出力する、その処理形式自体に関しては、ロマかなだろうが仮名入力だろうが、違いはない。しかし、仮名入力の場合、少なくとも人間の認知にとっては、自分の動作とPCの画面表示との間の時間が、限りなくゼロに近いため、自分の動作出力(打鍵)とPCの画面出力があたかもイコールであるかのように、PCではなくて自分が文字を出力しているかのように、脳は、平たく言えば、錯覚する。


錯覚、と、確かに言ってしまって構わないと思うが、しかし、重要なのは、この構図というのは、音声言語についても全くパラレルに当てはまる、という点である。
口や肺などの発音器官を動員して言葉を発するとき、私らは音を出力している、と思っている。しかし、人間にとっての出力とは、養老孟子氏の指摘するごとく、筋肉動作以外のものではあり得ないのであって、音、つまり空気の振動という情報を脳が処理して起こる聴覚印象は、その動作出力を受けて勝手に発生した、結果物に過ぎない。それを認知するとき、そこには、仮名入力において、打鍵操作と文字という視覚印象の間に存在するのと同様の、行為と反応の間の即時性があり、そのために脳は、自分が動作ではなく音という聴覚印象を出力している、というふうに錯覚する。
(音は空気の振動である、ということは、言語にとってそれほど意味のあることではない。それは、文字が光線の特定のパターンである、と言ってもあまり意味がないのと同じである。問題なのは概念化された音である。)
発音器官による出力の結果物を、ほぼ同時に、耳が聞いている。手指動作による出力の結果物を、ほぼ同時に、目が見ている。この表象の様相において、仮名入力と音声言語は、かなりの類似を示す。特に、音節と打鍵との対応性が高い親指シフト入力について、「指がしゃべりだす」などと言われるのは、つまりはこの両者間の類似のことを言っているのではないのだろうか。
(追記:きちんと考えると、実質的にゼロになるのは、動作と動作結果の認識の間の時間だから、つまりは、フィードバック全体の時間がゼロになる、と言った方が意味があった。いずれにせよ、量的な相違が質的な相違に相転移する臨界点である。)


今こういう風に考えた中で、例えば変換操作のことなど、多くのことを抽象しているのではあるが、親指シフトで何か打っている時の私の主観的な印象については、傾向として、確かにこのようなことが言える。


こう考えると、ロマかなと親指シフト仮名入力との間には、打鍵数の少なさといった疲労負担的な点でのラクさとか、打鍵のリズムの快適さだとか、それらとは全く次元の異なる、動作に対する認知といったレベルでの、根本的な質的相違がある、というふうに、思われる。そして実際、少なくとも私にとって、このような説明でなければ納得できないような、言葉にしがたい感覚が、確かにあると感じている。

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こういう風に考えていると、今まで気になっていた様々な点について、また別の視点から考えることが出来る。
ロマかなには双方向的な入出力フィードバックの感覚がある、と書いたが、このことは、もしかすると、行段系と仮名直接系の二つのモードに対する、人による好みの違いを、内語処理に関する気質的な違いとして、いくらか説明できる可能性がないだろうか。
また、自分の経験について言うと、親指シフトにしてから、独り言を垂れ流すような文章とも呼べないシロモノが、非常にたやすく書ける様になってしまったが、これも、この双方向性の欠如が、理由なのかも知れない。

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(追記)
言語について考えるときに間違えやすいのが、「音」というのが客観的存在であるかの様に錯覚してしまい、「言語音」、言語にとっての音というのが、一つの「概念」だということを、忘れてしまうことである。
例えば、「あ」といっても、その物理的音声的クォリティだけが「あ」なのではなくて、それを抽象化して概念化してはじめて、一つの言語音として認識することが出来る。
さらに文字についても、「あ」という文字が音を表現する、というのは多分誤りで、この抽象化された概念としての「あ」を表すものなのではないかと、考えたりする。当たり前だけど、文字は映像であり音ではないのであって、二つのものを等価なものとして結びつけているのが、この「あ」という概念である。
この「あ」という概念に対して、ひとたび「あ」という文字が、等価のものとして結びつけられると、はじめは「あ」という概念の独占的な性質であった「あ」という音は、この概念の一側面を表す、ただの一つのプロパティへと地位を落とす。