こう言えば

http://www7.plala.or.jp/dvorakjp/
「運動記憶」という言葉。こう言えば一般的にも通りが良さそうですね。とても参考になります。
言語学をかじり出してから、ずっと考えているのが、この「運動記憶」が記号性を持ちうるのか、ということ。ここでいう記号とは、二重分節の第一段階に用いることが可能な要素、ということで、「印象」とか「表象」、「ゲシュタルト」なんて言葉のほうが良いのかもしれないが、専門的な用語法に詳しくないので、何となく曖昧なまま保留・・・・・・。
いわゆる「キネティック・メロディー」というのが、もしかしたらこの、運動覚の記号的記憶形式に当たるのかな、とか思ったりする。
これがそうだとすると、内語のメディアとしては、もしかすると視覚記号や聴覚記号のほうが付属物である、ということが、あり得るかも知れない。
ちょっとかじっただけの素人だし、調べ方が悪いのだとも思うが、言語学の概論的なもので、この様な考えを扱ったものというのは、知らない。だけどずっと気になっているのですね、言語能力というのは基本的に表象操作の能力に拠るものというのはそうだろうが、アウトプットに実際に使っているのは音でも字でも無く、それらは筋操作の結果でしかないわけで、アウトプットとインプットのフィードバック作業としての言語活動の中で、筋操作というのはどういう風に位置づけたら良いのでしょう・・・・・・。

  • 「人間のアウトプットというのは、基本的には随意筋の操作だけ」

ということをはっきりと認識したのは、養老孟子の、どの本でだったかは、憶えてないな・・・・・・。